【Tale】RENAULT 5 Alpine

―― une

電卓を弾いた指を顎に当ててから、灰皿のタバコをつまむ。煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、黄煙は半分くらい空いた窓から外へ消えていく。今夜は満月だからか、外がやけに明るい。

窓を開けていても寒くない時季になった。外からは少し湿った風がときおりカーテンを揺らしている。電卓の数字はまずまずの数値だ。私は建築会社の社長。といっても一人親方だ。家族もいないから正真正銘の一人。

もうこの仕事をはじめて28年になる。独立したのは27歳のとき。それからいろいろと苦労はしたが、ここ10年ほどは安定した生活を送れている。とはいっても、大きく儲けているわけではない。所詮は一人。精いっぱい頑張ったとしても上限は見えている。その範囲内で何とかやっていけているという意味だ。家賃を払って、保険や税金を払って、気に入った服や食べ物をときどき買ったり食べたりして、古いクルマのための修理費をいくばくか貯めておける。私はそういう暮らしを好む。

「ただ……」。

私はいつもここまで思考して、いつもこの先の思考を滞らせる。何だろう。満たされていながらも、この満たされない感じは。

 

―― deux

夜なのにほのかに明るく、非日常的な空気感がある。こんな日はクルマを運転したくなる。私はマンションの地下にある駐車場へ向かうと、クルマのドアを開けた。1979年のサンク・アルピーヌ。このクルマを手に入れてもう28年になる。独立したときに買ったクルマだ。以前はサンクGTLに乗っていたから、知らない人からすれば色が変わったくらいの違いだろう。私自身、どうしてもこのクルマが欲しくて探し求めていたわけではなく、ひょんなことから手に入れることになった。中古車というのはつくづく縁だと思う。

破れかけたシートに座ると、キーを差してひねる。盛大な爆発音がしてクルマ全体がせき込むように震え、その後も細かな振動が続く。至るところからモノとモノがこすれる音、小さくぶつかる音が聞こえる。もう40年近く前のクルマだから、正常な年の取り方かもしれない。ピカピカにしていれば「ビンテージだ」なんて誇らしげに言えるが、残念ながら胸を張って言えるような状態ではない。

地下駐車場から出ると、シンと静まり返った住宅街を抜け、大きな河の堤防道路に出た。この時間だと走っているクルマは少ない。川面を眺めると満月の光を受けて、チラチラと輝いているのが見える。私は窓を開けた。

サンク・アルピーヌのデビューは1976年。サンクLSの発展型として登場したと記憶している。ルノーがボルボ用に開発したOHV1397ccのエンジンを圧縮比アップ、さらにウェーバーのキャブを付け、93馬力までパワーアップさせた。俗に言うホットハッチの手法だ。ちなみに同系のエンジンはA110にも載っている。

私は前に誰もいないことをいいことに、アクセルを床まで踏んだ。ウェーバーの吸気音を響かせ、この外観にはそぐわない加速を見せる。まだまだエンジンは元気で、自分の右足に応えてくれるこのクルマが健気だと思う。

このサンク・アルピーヌが登場した翌年、ルノーは「ルノー・スポール」を立ち上げ、F1、耐久レース、WRCに参戦するようになった。WRCこそ限定的だったが、サンク・アルピーヌは小さなラリーにそこそこ出場し、上位入賞していたようだ。この礎があったからこそ、サンク・ターボの登場につながったし、サンク・アルピーヌ・ターボを生み出す契機にもなったと思っている。そういう“スター”を誕生させた足掛かりとしての存在感やヒストリーが好きだったし、そういう背景があったからこそ、私はこのクルマを買ったのだ。

 

―― trois

この港には何度も来ていて、巨大な橋が間近に見える場所を知っている。ここにクルマを止め、ここでコーヒーとタバコを楽しんで帰るという行為を、何回しているだろうか。

まだまだ元気なサンク・アルピーヌだが、トラブルも数えきれないくらい経験した。そもそも買ったときですでに10年落ち。クラッチ交換、ラジエター交換、エンジンオーバーホールなどの重整備はもちろん、細かな問題もその都度、直してきた。ブレーキサーボ不調、ロアアームのボールジョイント交換、ダンパー交換、タコメーター不動、ウォッシャー不動、燃料ポンプ不動……。ああ、整備じゃないけど、全塗装もした。もう細かいトラブルはトラブルと認識もせず、そういうものだとあるがままを受け入れる耐性がついた。すべてをクルマ屋に頼めるわけでもないから、自分で対応していくうちに、だんだんと知識もついていった。ただ、素人がゆえの失敗も何度かしたし、それで危ない目に遭ったこともある。この辺のパーツはいつ、どのように交換したのか。そういうこともだいたい分かっている。でも、最初の頃のトラブルはもう忘れてしまった。記憶にしか記録を残しておかなかったのを、いまさらながらに後悔することもある。

そう考えると、このクルマは自分そのものなのだなと思う。よくクルマを女性にたとえることはあるが、私はそう思ったことはなく、これが自分の分身。単なる移動手段ではなく、自己を表現したもの、いや表現しようと思わなくても、そこには自分が否応なしに投影されるのだ。

ちゃんと直したものもあるけど、いろんなものを騙し騙しやってきたこと。その経緯を示すのが記憶しかないこと。あんまり外観に気をかけないこと。かといって、内装も大して気にかけていないこと。ちゃんと走れさえすればいいと思っていること……。いいことも悪いことも含め、このクルマは自分なのだ。

 

―― quatre

人生、80年だとするなら、私は折り返し地点をもう10年以上過ぎてしまっている。仕事は安定しているものの、いろんなものが右肩下がりになっていく時間を生きている。特に顕著なのは肉体的なことだ。当然だが、人間もモノである以上、老化する。しかし、精神はその老化についていけず(いや認めようとしないのかもしれないが)、そこにギャップが生じ、不幸を連れてくる。そろそろ人生のカウントダウンも聞こえはじめてくるのではないか。そういった実感が強くなればなるほど、それに抗いたくなる自分がいる。それを一言で表現するなら「このまま終わっていいのか」。何かに悔いはないのか。これまでは悔いがあったとしても、それを解決する時間があった。しかし、この先そうはいかない。後悔は、本当の後悔になる。満たされていながらも、満たされない感じ。その正体はきっとこれなんだろう。

 

―― cinq

私にはずっと付き合ってきた夢がある(寝ているときに見る夢のことだ)。それは何かを成し遂げようとしても、その手前で何かが起き、いつも未遂に終わるという夢だ。頻繁に見るわけではない。忘れてしまうほど、時間が空くときもある。しかし、40歳を過ぎたころから、その頻度は確実に上がった。これが何を意味しているのか。

安定は、一般的に素晴らしいことだと思う。しかし、その状態は無自覚に、思考停止に陥ってしまうことと同義ではないか。そう思い始めたら、自分自身も、そしてサンク・アルピーヌも、見方が変わった。

立て続けに吸ったタバコの火を消して、私はクルマに乗り込む。湾を横断する巨大な橋のライトアップはもう終わっていたが、その向こうの空は徐々に白み始めている。心のしこりを取り除きに行こう。安定という魔法を破りに行こう。そして28年乗ったサンク・アルピーヌに別れを告げよう。それは最後の別れではなく、私とサンク・アルピーヌの再スタート。新たな姿を手に入れるために、別々の道を歩むのだ。

お前はピカピカのビンテージになるのか。私はサンク・ターボにはなれないかもしれないけど。

 

 

 

PHOTO & TEXT/Morita Eiichi

 

1979y RENAULT 5 Alpine
全長×全幅×全高/3540mm×1520mm×1377mm
ホイールベース/2440mm
車両重量/850kg
エンジン/水冷直列4気筒OHV
排気量/1397cc
最大出力/69kW(93PS)/6400rpm
最大トルク/114Nm(11.7kgm)/4000rpm

 

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