幸せとは何かと考えてみる。そもそも幸せなんて、人間の生み出した幻想であると思う。つまり幸せなんてものはない。はじめからないのだ。ないものをすべての人間が追い求めようとしているから不幸になるのだと思う。ただ、百歩譲って、幸せがあると仮定するなら、それは「瞬間」だと答える。もしくは「非日常」である、と。幸せは連続すればただの日常となり、幸福感は感じられない。一瞬であるからこそ、人は幸せを感じられる。幸せがあるとしたら、その一瞬だ。
フィアットはその歴史のなかでたびたび経営危機を迎えている。最初に訪れたのは1970年代の石油ショックを発端にしたもので、労働争議などの問題も重なり、経営が不安定になった。その弱りっぷりは1974年から1978年の間、新型車を発表できなかったほどだ。しかしその後、1980年代初頭に発売されたパンダとウーノによってちょっと持ち直した。しかし、その後も完全復活とは行かなかった。イタリアの国内シェアはかつて60%を占めていたが、1992年には44%まで落ち込んだ。欧州市場全体を見ても、以前は15%を握っていた占有率も12%まで縮小してしまった。これではマズい。かつてヨーロッパのBセグメントを支配していたウーノをもう一度! そして登場させたのが初代プントだ。まさにその名のとおりフィアットの「ポイント」となるクルマである。これがヒットした。
プントはこれまでフィアットが行ってきたクルマのつくり方とだいぶ違う。たとえば、ヨーロッパ全土の幅広い層にアピールするため、これまであまり得意ではなかった安全性や組み立て精度の向上にかなり力を入れてた。いまとなっては……だが、必要な装備はすべてそろっていた。シートベルト・プリテンショナーをはじめ、花粉フィルター、前席エアバッグ(オプション)など安全性、快適性はバッチリだ。さらにカンバン方式のアッセンブリー工法によって、高い品質と性能も確保した(たとえば60%に亜鉛メッキ鋼板を使い、ウーノに比べてシャシー剛性も3割高い)。
得意分野のデザインにおいては、ウーノと同じくジウジアーロ率いるイタルデザインが担当。デザイン思想の根底に流れているのは「全長の短いクルマは、アップライトな乗車姿勢を推し進めていけば、それに応じて有効空間が広がる」というものだ。その思想に基づいてデザインすると背が高く、ボクシーで、タイヤを四隅に追いやったクリーンな形になる。まさにウーノからの正常進化を果たしたのである。
エンジンのラインナップは1.1L(55ps)、1.2L(60ps)、1.2L(75ps)のFIREエンジン、ティーポから持ってきた1.6L(90ps)、ウーノ・ターボで使っていた1.4Lターボ(136ps)や1.7Lのディーゼルもある。おもしろいのは1.1Lには6MTが組み合わされていることで、若者をターゲットにしたモデルだという。この狙いは当たり、実際にイタリアの若者たちにかなり人気があったようだ。非力なクルマを(おそらく)クロスしている6MTをガチャガチャやりながら走るのは、さぞかし楽しいだろうと思う。
さて、そんなフィアットを下支えする大衆車・プントだが、日本へは本国でのデビューからだいぶ経った1997年にやってきた。モデルは1.2Lのセレクタとカブリオ。その1年後にアバルトのエアロで武装した1.2L DOHCのスポルティングアバルトが導入された。今回紹介するのは、そのうちのひとつ。カブリオだ。
プント・カブリオといえば、僕がまだ高校生の頃、実家の向かいの家に住んでいる大学生のお姉ちゃんが、突然黄色のカブリオに乗ってきたのを強烈に憶えている。田舎の町である。当時目にしていたのはファミリーセダンか軽自動車かくらいなので、目の前に黄色いオープンカーが現れたときには驚いた。その日から僕は、向かいの家の横にある駐車場でこのクルマと毎日顔を合わせることになった。ただ、そのお姉ちゃん、けっこう無精らしく、洗車をしない。だから黄色いプント・カブリオは日に日に汚れていった。せっかくおしゃれなクルマなんだから、洗車くらいすればいいのに……と、めんどくさがりな僕に思わせたのだから、相当である。
その後、輸入車雑誌の編集時代にクローズドボディのセレクタに乗った。しかしあまり印象に残っていない。まぁ、普通に走るクルマ、くらいの記憶だ。
ジウジアーロのデザインをベルトーネがオープンボディにした。と、その説明だけ聞くと、ビッグネームが2つも連なっているからすごそうなクルマを思い浮かべそうだ。でも、その正体はいたって普通のコンパクトオープンカー。なのだが、いまとなっては小さい大衆車ベースの、ちゃんと4人乗れるオープンカーって案外見つからない。オープンであっても、大きいか、2座か、高級か、と何かしらの項目が外れ、ドンピシャのがない。さらに幌を閉めてもデザイン性を損なわないクルマとなれば、さらに希少だ。
走りは普通である。いや、普通という言い方はちょっと失礼だ。1.2Lの割にはよく走ると思う。FIREエンジンは軽やかに回るエンジンなので、本当ならMTで引っ張ってぶん回して乗りたい気もするが、オープンエアを楽しみながら走ることを考えれば、ECVTでもいいかと思う。そうそう、このECVT。機能的にECVTとパウダークラッチ(電磁粉体クラッチ)がこのクルマの大きなポイントとなるので説明しておく。
いまでこそ軽自動車から高級車まで金属ベルト式のCVTが採用されているが、この機構が世に出たのは1987年、富士重工業が発売した「ジャスティ」と「レックス」に搭載されたのが初。積層された薄い金属帯に独特な形をしたコマを多数はめ込み、そのコマを順次押していく力で動力を伝達するのがその仕組みだ。この金属ベルトはオランダの「VanDoorne(ファンドーネ)社」が開発したもので、富士重工業はこのベルトを使い、CVTとパウダークラッチを組み合わせて「ECVT」として商品化。フィアットはこれに目を付け、ウーノやパンダ、プントに採用した。
ECVTは変速ショックがなく、動力をあますことなく伝え、小型・軽量化でき、クリープがないので安全と謳った。たしかにそうなのだが、そのメリットよりもデメリットのほうが目立ってしまった。それはCVTではなく、パウダークラッチのほうだ。
パウダークラッチは、わずかに隙間を持たせた1対の円盤の間に磁性体の粉を入れておき、電気の力で磁力を発生・制御することでエンジンからの動力を伝えたり、切ったりしている。しかし、当時の制御技術では半クラッチがうまくできず、低速でギクシャクした動きが出るなどの問題が発生。また、上り坂でブレーキを使わず、アクセルを少し踏んで停車するなどの使い方をしたせいで、パウダークラッチに大きな負担をかけてしまった。しかも通常のクラッチに比べて部品代が高かったため、パウダークラッチのみならず、ECVTすべてのイメージ悪化を招いてしまったのだ。
実際に運転してみると、たしかにMTなら半クラッチをするであろう極低速の走行域では、多少ギクシャクした感じはする。しかし、それはほんのわずかな時間で、そのままアクセルを踏み込んでいけばすぐに解消する。おそらく渋滞でノロノロ走行を過度に強いられる状況が続いてしまうと、故障にいたるのだろうとは思うが……。ちなみにこの車両はパウダークラッチをオーバーホールしているので、その辺のところは問題ない。
話はちょっと横道に反れるが、フィアットと取引をしている日本の某大手部品メーカーの技術者と、仕事関係で話すことがあった。休憩時間に「フィアットってどんなメーカーなんでしょうね?」と質問をぶつけてみた。その返答は「新しいこと、革新的なことが好きなメーカーですね。常にそういうのを探しています。でも、エポックメイキングなことをしたいけど、それをうまく具現化できないとなると、日本のメーカーを頼ってくるんです。で、けっこう無茶な要求をする(笑)。ま、そのおかげで私たちの技術力も上がるんですけどね」と。
自動車の搭載例としては珍しいパウダークラッチ、そしてそれを量産化したのは日本の富士重工業。それを採用したかったフィアット。何だか妙に納得できる。
オープンカーはただそれだけで、クローズドボディのクルマよりも優れている。屋根が開くという最強の武器をはじめから持っている。「屋根が開いても別に気持ちよくないよ」と言う人はほっといて、小さくて、ちゃんと4人乗れて、小粋なデザインのイタリア車なら、60馬力しかないクルマであっても充分だ。
僕がもっと若くて、このクルマを持っていたら、友だち4人で旅行に行きたい。景色のいいところに来たら、幌を開ける。それでカーステレオでみんなが知っている曲を大音量で流し、周りの目なんか気にせず、音楽に負けないくらいの大声で歌う。誰かが歌詞を間違えて、それを冷やかしたりする。ああ、青春だなぁ、っていう一コマを演じたい。そこには、たとえばドイツ製の高級なオープンカーは似合わないだろうし、そもそもこんなバカなこと、2座のオープンでやっていたらかなり恥ずかしい。3人でも少ないな。4人いるからバカなことも絵になる。
日常でもいい。通勤・通学で使っている日常の足グルマ。たとえば大きな仕事が終わった晩夏の帰り道。夕方、ちょっと涼しくなった風を楽しむため、屋根を開ける。思った以上に夕焼けもきれいでその瞬間、これまでやってきた仕事の辛さとか、悩みとかは消え去り、幸福を感じる。走り出せば、頭上に赤とんぼ。しばらく併走したけど、いつのまにかどこかへ行ってしまった……。そんな一瞬の幸福が、このクルマにはある。もしかしたら件の大学生のお姉ちゃんも、こんな一瞬の幸福をプント・カブリオで楽しんだのかな。どうだろう。
PHOTO & TEXT/Morita Eiichi
1997y FIAT Punto ELX Cabrio
全長×全幅×全高/3770mm×1625mm×1445mm
ホイールベース/2450mm
車両重量/1060kg
エンジン/水冷直列4気筒SOHC
排気量/1240cc
最大出力/44kW(60PS)/5500pm
最大トルク/96Nm(9.8kgm)/3000rpm