「ねぇ、Aくんってクルマ持ってるの?」
「うん。持ってるよ」
「どんなクルマ?」
「フィアットのチンクエチェント」
「えー! あのかわいいヤツ?」
「う、うん。かわいいね、たしかに」
「じゃ、今度ドライブ行こうよ、ドライブ」
この会話は3年くらい前、僕の友人から聞いた実際の話。友人Aはちょっと気になっていたSさんをデートに誘いたかったのだが、なかなか誘えずにいた。たまたまクルマの話になったときの内容が、上述のとおりだ。しかし、デート当日、Aのクルマを見たSさんは絶句した後、一言ポツリ。「これ、500と違う……」。
その後、AとSさんがどうなったのかは知らないが、現行500がそれなりに売れているからこそ、このようなプチ悲劇を巻き起こす可能性がある。
記憶に残っていないクルマ。
今回、9月30日(日)にモリコロパークで開催される予定だった欧州車の祭典「ミラフィオーリ2012」が台風の影響で12月16日(日)に延期になってしまった。延期にならなければ、参加車を肴にあーだこーだいうつもりだったのだが、それもかなわず。なので今月は、ちょっと遅れてしまったが通常モードでいきたいと思う。で、登場してもらうのは、Sさんに「これ、500と違う……」と言われた、フィアット・チンクエチェント・スポルティングである。
たとえば、ラテン車好きが10人いて、その人たちに「フィアットのチンクエチェント買ったんだ」と言ったとしたら、おそらく4人は鏡餅のようなフォルムの「NUOVA500」をイメージし、5人は2007年に発売された(街中でも良く見る)あの「500」を思い浮かべるだろう。そして残る1人は、以前乗っていたとか、好きでいまも乗っている、とか、ラリーが好き、とかそういう理由でこのクルマを想像するかもしれない。あくまでも僕の勝手な憶測なのだが、言いたいのはラテン車好きでも「それくらい記憶に残っていないクルマ」ということだ。
記憶に残っていないということは、当然、そのクルマのこともよく知られていないと思う。そもそもの出自は、フィアットがパンダの後継モデルとして新しいクルマを企画したところから始まる。小さいサイズと排気量、3枚ドアというキープコンセプトでありながら、もうちょっと現代的に仕立てようと考えた。それが1991年にデビューしたチンクエチェント900iだ(さすがに排気量は500ccではないので、500とは表記しなかった)。エンジンはパンダ45に積まれていた直列4気筒OHVの903ccで、40psを発生させた。そして1993年にはイタリア国内のラリー用に設定された「トロフェオクラス」専用車として「チンクエチェント・トロフェオ」が限定生産される。以前はウーノ・ターボがワンメイク指定されていたが、ハイパワー化が進んで危険になりつつあったこと、イタリア国内において免許を取って3年以下、もしくは21歳以下の若者は、公道で60ps以上のクルマを運転するべからず、な法律ができてしまったことが背景にある。日本にも少しだが並行輸入されて話題になった。このクルマを知っている理由として「ラリーが好きとか」と書いたのはそういうことである。
その1年後である1994年、本国で「スポルティング」というグレードが追加され、パンダにも積まれていた1.1リッターSOHCのファイア・ユニットが載ることになった。それが今回の主役となる「チンクエチェント・スポルティング」だ。ちなみにこのスポルティングにツェンダー製のエアロやスピードライン製のホイールなどをまとった「チンクエチェント・スポルティング・アバルト」というモデルも存在する。というか、こちらのほうが数少ない台数の中でもまだよく見るモデルかもしれない。「ジアロ・ジネストラ」と呼ばれる鮮烈なイエローはかなりインパクトのある色だが、アバルトと名付けられている割に中身はスポルティングとまったく同じで、アバルトがチューンしました的な要素は皆無(フィアットは後にも「プントHGTアバルト」でこの手法を使っている)。アバルトを期待しすぎると、毒なしサソリの無刺激に肩すかしを食らうことになるのでご注意を。
生産はポーランドにあるフィアットのティヒ工場でおこなわれた。1974年に操業を開始したこの工場は、当初「フィアット126」を生産していたが、その後このチンクエチェントを生産することになり、1998年にはその後継であるセイチェント、2003年からはパンダ2、2007年には現行500とフィアットの主要工場のひとつとして成長してきた(ちなみに500とプラットフォームを同じとするフォードKaも受託生産されている)。当時、ティヒ工場で生産されたフィアット車の数は、イタリア本国の全工場合計より7万台以上も多かったという。
たとえ55psしかなくても、車重が800kgを切っているので軽快な走りは期待できるはずだ。現車を前にするとやる気満々な雰囲気を感じさせるが、小さい。とにかく小さい。パンダ1の全長が約3400mmだが、チンクエチェント・スポルティングは約3200mm、幅もパンダ1より23mm狭いし、背も50mm低い。見た目のサイズ感は、日本の軽自動車とほぼ同等(幅はこっちのほうが広いけど)。いかにも薄そうなドアを「バシャーン!」と閉め、いざ試乗に出発!
パンダ1に乗ったときも感じたが、50psそこそこしかないとは思えないほどよく走る。1.1リッターのファイア・ユニットは実用エンジンの割によく回るし、印象は良い。上までブン回して走るのもいいが、4000rpmくらいでポンポンとシフトアップして速度を上げていったほうは速いような気がする。1~4速がクロス気味なのでつながりがいいし、シフトのタッチも軽くてソフトなので、シフトチェンジが楽しくなる。なんか、けなげでいいなぁ。スペック的にはぜんぜん大したことないエンジンなんだけど、どこか一生懸命動いてるっていう小動物のような温度を感じる。デザインももちろんだが、このエンジンが好きになれるかどうか、がこのクルマの評価に大きく影響してくるような気がする。
市街地を抜け、郊外も抜け、大きな川を渡り、僕は峠をめざした。このパワーで登りはかなりストレスが溜まる。しかし、4000prmからレッドゾーンの始まる6000rpmの間を外さなければ、何とかがんばってくれる(6000rpm以上は回してもムダです)。ファイア・ユニットは盛大なうなり声を上げて、(遅いけど)クルマを前へ前へと押し上げてくれる。ああ、楽しい。運転の楽しさは、絶対的なスピードに比例しないことを再確認させてくれる。
峠で休憩し、今度は下り。パワーのハンデを帳消しにしてくれる下りは、さらに楽しい。軽い車体は短い直線でも3速に入れて踏むだけで、スッとクルマを前に押し出してくれる。踏み続けると怖いくらいに加速するので、ちょいプアなブレーキを考慮してコーナー手前では充分に減速。けっこう強めのアンダーが出るが、(古いけど)アドバン・ネオバのグリップに任せて強引に舵を切る。ゆっくりと大きくロールするが、それでもタイヤが地面離さない感覚は、パンダ1のそれと似ている。フロントに荷重のかかったときのステアリングは、通常のときよりも考えられないくらいに重くなるが、それを力でねじ伏せる楽しみも加わって、たった55psのクルマを操るのが一気にスポーツになる。こりゃ楽しいわ。もう一往復しよ。
高速巡航もけっこうイケる。
小さな13インチホイールに165という細いタイヤをこれでもか、とねじ伏せて腕がパンパンになりながらも、程よい汗と疲労感。小さなクルマでお遊び程度のスポーツを楽しんで帰路に着く。1~4速はクロス気味になっているのは先ほど書いたが、5速は4速からだいぶワイドで、オーバードライブに使える。5速に突っ込めば、85km/hで2500rpm。キビキビ走る印象のクルマだが、高速巡航もあんがいイケちゃうのだ。軽いので、大きなトラックが追い越していく際の風圧にハンドルを取られたりすることもあるが、長距離移動もそれほど不得意ではないと見た。ほんといいクルマだ。みんなに忘れられてはいるけど。
パンダの後継として、多くの部品を共用していることからパンダらしさを継承しつつ、ちょっぴりモダンになったチンクエチェント。パンダはかわいいけど、ちょっとかわいすぎると思う男子や、もうちょい走りに振ったのがいい、と思う方はこのチンクエチェント、おすすめです。ちゃんと4人乗れるし、燃費もいい。タイヤとか、オイルとか、そういうのにもそれほどお金がかからない。若者は、こういうクルマで運転を覚えたほうがいいと思う。
でも、でも。当該車のように並行で入ってきてはいるけど、ついぞディーラーで売られることはなかった。本国ではパンダほどじゃないにしろ、それなりに売れていたようだ。その証拠にチンクエチェントの後継としてセイチェントが発売されたわけだし。なんでインポーターは日本に導入しなかったのか。売れないと思ったのだろうか。その理由は? 輸入車の格がないから? いかにもイタ車って感じのオシャレさがないから? ダイハツ・ミラに見えるから? そりゃないよ……。
フィアットはパンダの後釜として、このチンクエチェントを企画し、販売したと書いた。しかし、フィアットはチンクエチェントを発売した後も、パンダを作りつづけたのだ。一般的には新しいモデルが発売されたら、古いモデルは生産しないものだが、消費者は「パンダがまだ買えるなら、そっちを買うよ。値段もチンクエチェントより安いしさ」とパンダを支持。それでもチンクエチェント、がんばってセイチェントまで進化したが、そのセイチェントも生産中止になり、チンクエチェント→セイチェントの流れはここで途絶えることになる。その間、パンダはパンダ2、3に進化し、チンクエチェントはその名前すらも500に奪われ……。嗚呼、かわいそうなチンクエチェント。この記事を読んでくださったことを契機に、みなさんもうちょっとチンクエチェントを気にかけてやってくださいね。ほんと、楽しいクルマなんですから。
PHOTO & TEXT/Morita Eiichi
1997y FIAT Cinquecento Sporting
全長×全幅×全高/3227mm×1487mm×1435mm
ホイールベース/2200mm
車両重量/780kg
エンジン/水冷直列4気筒SOHC
排気量/1108cc
最大出力/40kW(55PS)/5500rpm
最大トルク/86Nm(8.8kgm)/3250rpm
こんばんは。
Cinquecento Sporting Abarthに乗っています(笑)
わかり易いCinquecentoの解説と、素晴らしいインプレをありがとうございます。
何度も頷いてしまいました♪
布教活動の結果、私の周囲では「チンクエチェント = Cinquecento」の認識をして頂いています(笑)
>毒なしサソリの無刺激
私は、「三菱 デボネアV ロイヤルAMG」と例えています(ぇ)
理解してくれる方はCinquecentoを知る人より少ないですが(爆)
こんばんは。コメントありがとうございます。
オーナーさまからこのようにご意見いただけるのは非常にうれしいです。
草の根の布教活動、頭が下がります。
> 私は、「三菱 デボネアV ロイヤルAMG」と例えています
すばらしいたとえだと思います。
構図としては同じですが、チンクエチェント・スポルティング・アバルトのほうが
デキとしては数段上だと思っておりますが、まちがいないでしょうか?(笑)
ポーランド車っていう希少なカテゴリーに関わらず、
126BISの方が良いポジションにいることは事実
ですね。
人気が無いのは新車当時からだと思います。
中途半端に普通のクルマ風情だったのが仇になった
良い例でしょうね。
BISは水冷のハッチバックですよね?あれはあれでタノスィかも♪
でも、つくり古メカしい。チンクェは普通に乗れますよ。
空冷のフリして静かで荷室もそこそこ、というひねくれた車です。
パンダ1やチンクェチェントと同様のあの餡子の薄いシート
が付いていて中途半端に現代的なんですが、ボディデザインの
かわいさで許されてしまうんですね。
スバルR2(初代)にも通じるレトロ感が良かったんでしょうね。
ルノー4やへへ2CVと同様のスタンスです。
えー?ヨンさま一緒にされちゃ、困るぅ。
他車は我慢を強いられるけど、ヨンさまは我慢度合い少ないよぅ。
デザインがレトロ、という一般的なカテゴリー分け
ということです。
長らく徐々にアップデートして販売されたものだけが
放つ独特のオーラのコトを私は言いたかった・・・。
カッコだけじゃ乗れないのですが、カッコダケで括られて、ってのも問題で・・・
痛々しいの見聞きするのは、もう飽きたので・・・
それをそれ相応に維持され走ってると、いいですよねぇ・・・
シバッチRSさん、コメントありがとうございます。
あと20年もすれば、チンクエチェントも良いポジション(何を持って良いポジションと言うのが分かりませんが)になってる……なんてことはないですかね(ないか)。
やはり「イタ車はデザインありき」だと実感しました。
このクルマは「チンク」と大きく出てしまっていなければ
そこそこ成功したんじゃないでしょうか?
→パンダ2が上手く行ったのか?どうかは解らんのですが?
どうなんでしょ?でも、チコーイ車創らせると上手かったんですよムカシハ。