【Tale】Alfa Romeo 115 Spider Veloce

 有里がこのクルマを見たら、どんな顔をするだろうか。
 夜明け前、私はそんなことを想いながら、がらんとした街中を空港に向かって走っていた。

 

 

 

 2029年3月4日。きょうという日は、何の変哲もない日曜日だが、きっと私にとって特別な日になるだろう。ひとつの節目であり、待ち焦がれていた日でもある。そのせいか、私の頭は妙に過去を振り返ろうとする。その指向に逆らうことなく、ゆっくりとクルマを運転しながら、これまでのことを思い返していた。

 私は建物の設計を生業にしている。大手建築会社で働いているときに一級建築士を取得し、その後、2003年に独立。個人の邸宅を中心に設計業務を続け、何とか26年間持ちこたえている。独立した同じ年に初めての子どもも生まれた。この2つの祝い事に、私は天にも昇るような気分だった。その記念として、ずっと欲しかったクルマを買った。アルファロメオ115スパイダーヴェローチェ。1993年式の最終型だ。
 初めて見たのは、高校生のときだっただろうか。道端に停まっていたそのクルマのサイドシルエットに衝撃を覚えた。後から調べてみると、ピニンファリーナという有名なデザイナーによる作品だということも分かった。そしていつか、これに乗りたいと思ったのを憶えている。

 購入したスパイダーは、それほど高いものではなかった。本当はボートテールのデュエットが欲しかったが、さすがに維持していく自信はなかったし、何より高すぎた。だからそこそこの金額で、そこそこの程度のものを探していたら、最終型のこのクルマに行き着いたのだ。ATだったが、この3速ATはエンジンとともにけっこう丈夫なので、というお店の声も私を後押しした。

 このクルマを、私はとても気に入っていた。子どもがなかなか寝てくれないときは、スパイダーに乗せて、近所を2、3周するとあっさりと眠ってくれたし、ときどき子どもを両親に預けて、妻といっしょにドライブにも行った。子どもが少し大きくなると、よく屋根を開けてとせがまれた。オープンにして橋の下を通ると、目を丸くして喜んだ。気が付くとチラシの裏にクレヨンでスパイダーの絵を描いていたのも印象に残っている。ロケットみたいな細長い形に黒いタイヤが付いたその絵を、子どもは何度も私に見せてきた。毎回、同じような形なのだが、よく見るとディティールが少しずつ正確になっていくことに気づいた。子どもの成長を実感した瞬間だった。
 機関的な故障はあまりなかったが、樹脂やゴムといったやわらかいものは、ことごとく劣化し、崩れていった。プラスチックパーツは簡単に割れる。幌は破れる。リアのスクリーンが曇って見えなくなる。このようなことが重なると痛い出費になったが、大好きなクルマだからそのたびに直した。全塗装もしたし、ついにはシートまで張り替えた。

 

 

 ただ、このような幸せな時間は永遠ではなかった。2008年のリーマンショックで、この業界は大きな影響を受けた。生活は一気に苦しくなり、ついにスパイダーを売らなければならない状況まで追い込まれた。スパイダーが大好きだった子どもに悲しい想いをさせたくないと、内緒で引き取ってもらった。そのときは悲しかったが、その後、スパイダーはどこ? と子どもに聞かれるのは、もっと悲しかった。

 夜が明けてきた。それとともに、生まれたての春の匂いが鼻腔の奥をくすぐる。私は季節の変わり目に幌を上げてドライブするのが好きだ。いろいろな温度と匂いを識別するのが楽しいし、何より生きている実感がある。

 リーマンショックによる大ピンチを何とかしのいだ後は、少し平和な時間が訪れた。取引先はごっそりと入れ替わったものの、いま思えばリーマンショック前よりも良いお客さんに恵まれているのかもしれない。辛い時期をともに乗り切った経験が、強い信頼関係を醸成したとでもいうのか。
 金銭的な心配を、以前よりもしなくていいのは、大きな荷物を背中から降ろしたような安堵感がある。ああ、少し落ち着いたか。溜め込んでいた息をふっと吐き出したとき、高校を卒業しようとする子どもから「絵の勉強をするために、海外へ留学したい」と言われ、私はのけぞった。ただ、青天の霹靂というわけではなかった。幼い頃から絵を描くのが好きだったのは知っているし、この子は何となく早い時期に親元を離れていくではないか、と思っていたからだ。私はそうか、と一言だけいうと、ひとまずその場を立ち去った。そうか。そういうことを言う歳になったか。
 子どもの可能性を奪う親はいない。妻と話し合った結果、海外留学を許可し、子どもは2年間、イタリアへ行くことになった。
 子どものいない家はがらんとしていて、静かだった。当たり前だ。生まれてからずっと3人で暮らしていたのだから、1人抜けるだけで急に家の中が広く感じる。ただ、いまはITのおかげで相手が海外にいても、不自由なく会話ができるし、姿も見ることができる。寂しいと思っているのは、こちらだけかもしれないが。

 あるとき、何気なく中古車サイトを見ていたときだった。相変わらず私はアルファロメオが好きで、口には出さなかったものの、スパイダーにもう一度乗りたいと思っていた。中古車リストの中にはいまでも数車種がリストアップされていたが、むかしよりはだいぶ数が減ったように思う。そのなかで何となく気になるクルマがあった。1993年。私が乗っていたスパイダーと同じ年式だ。何気なくクリックしてみると、ある画像で手が止まった。これは……。
 そこにあったのは、私が張り替えたシートと同じ図柄の写真だった。急に鼓動が速くなるのを感じた。これは、私が手放したスパイダーではないのか? そう思うとすべての写真がかつての愛車に見えてくる。居ても立ってもいられなくなった。私は妻に相談することもなく、その店の電話番号を押していた。

 車体を正確に識別するものを保存していなかったため、絶対とは言えないが、見つけた広告のクルマは、やはりあのとき手放したクルマだと思った。こんなこともあるのか。17年前に私の元を去ったクルマが、いま目の前にあるという事実。実車を前にして、私は勝手にあることをしようと心に決めていた。その話を電話で妻にすると、呆れたような声で「しょうがないわね」と言った。

 アルファロメオ115スパイダーヴェローチェは、むかしのままだった。くどいようだが、このクルマが私のクルマだった保証はない。しかし、クルマを手に入れて走らせることができたいま、そんなことはどうでもよくなっていた。また、あの憧れのクルマに乗ることができた。その喜びで胸がいっぱいになった。

 1993年式だが、基本的な構造は66年にデビューしたときと大きく変わっていない。エンジンは2.0リッター直列4気筒DOHCでインジェクション仕様。最高出力は120馬力、トランスミッションは3AT、左ハンドル。当時は5MTが欲しかったが、このATも悪くない。そういえば、子どもを寝かしつけるときに近所を走り回ったときもそう思ったっけ。ドーンと走るGT的な感じは、私のような特に敬虔でもないアルフィスタにちょうどいいのかもしれない。緩めのボディを捻じりながらコーナーリングするときに、ゆらゆらと落ち着きのない動きをする。リアサスの構造に由来するジュリアシリーズならではのクセだと言われるが、それを“アルファダンス”なんて気の利いた名前を与える文化も悪くない。

 

 2029年3月4日。きょうという日は、何の変哲もない日曜日だが、きっと私にとって特別な日になるだろう。ひとつの節目であり、待ち焦がれていた日でもある。きょう有里がイタリアから帰ってくる。

 有里はこのクルマを見たら、どんな顔をするだろうか。私は「憶えていてほしい」と願いながら、空港の駐車場に向けてハンドルを切った。

 

TEXT/Morita Eiichi

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