【Tale】Renault 4 GTL

2020年4月3日。父が死んでから、きょうで2年が経った。

春真っ盛り。霧のような雨が町を包むなか、僕は満開の桜並木にクルマを停め、ぼんやりと外を眺めていた。振り返ってみると、この2年間は僕にとって大きな変化をもたらしてくれた時間だった。それは死んでしまった父によるものだった。

当時の僕は社会人として働いていたものの、従来からの引きこもりがちな性格で、人間関係がとにかく苦手だった。そのために人と関わることの少ない工場で、工作機械のオペレーターとして勤務していたのだが、それでもコミュニケーションはついてまわる。誰とも口をきかずに3日間働くことは苦でも何でもないが、人と1時間話すだけで1週間分の疲れを感じる。いや、これは工場の仕事だからマシなんだ。他の仕事ならもっとつらいだろう。そう言い聞かせて毎日をやり過ごしていた。

父はそんな僕とは違い、社交的な人だった。父をうらやましいと思ったが、しかし僕とは違う人種なのだから、そんなことを望んでも無理だとあきらめていた。家庭内でも会話はほとんどなく、父と母のいるリビングには食事のときに降りていくくらいで、それ以外はずっと自分の部屋でゲームをしたり、漫画を読んだりして過ごした。

父ががんで入院したのは、2017年の秋だった。入院した時点ですでにがんは進行しており、医師の懸命な措置も虚しく、翌年の3月に他界。病床で父は「最後の願いだ」と言って、僕にこう告げた。

「クルマを引き継いで乗ってほしい。これだけはどうしてもお前に守ってほしいんだ。哀れな父親だと思って。頼む」。

いろいろと分かるようにしてある、と父はそのクルマについて話し、詳しいことは自分の机の引き出しに書類があるから、と言った。僕は最初、何のことかよく分からなかった。家には小型の国産車しかない。それなのに、父はもう1台(母にも秘密にしていた)別のクルマがあると言う。それを僕に乗ってほしいというのだ。

その夜、父は息を引き取った。僕はふだん感情を表に出す人間ではないのだが、最後に「お前の父親になれてよかったよ」という言葉には表情を崩してしまった。しかしそれは、こんな情けない自分に対し、そんな風に思っていてくれた父への申し訳ない気持ちによるものだった。

父が死んでしばらくしてから、僕はそのクルマが保管してある車庫に向かった。家から徒歩で3分くらいのところにあるプレハブの倉庫。農機具とかが入っていそうな何の変哲もない倉庫のシャッターを開けると、そこにはレトロなデザインの小さな赤いクルマが停まっていた。「RENAULT 4」というクルマらしく、これで「ルノー・キャトル」と読むそうだ。見たところ、スーパーカーでも何でもない、その対極にあるようなチープなクルマだった。しかし、落胆したわけではなく、むしろ安心した。ものすごく高価なクルマが出てきたら、自分では扱えないと思ったからだ。

マニュアルトランスミッションのクルマは、仕事で乗っているが、左ハンドルは初めてだった。薄っぺらいドアを開け、深く沈み込むシートに座り、これまで嗅いだことのない、独特の車内のにおいに包まれる。キーを捻り、クラッチを踏み、ギアを1速に入れる。恐る恐るクラッチをつなぐと、クルマはあっけなく前に進んでいった。1990年式のクルマだから操作に癖があるのかと思ったら、まったくもって普通に運転できる。ハンドルが少し重いのと、ブレーキの効きが弱いのが少し気になるくらいで、とにかく普通だ。

走り始めてすぐに、見慣れた風景がこのクルマの中からだと違って見えることに気が付いた。いつも通る交差点、踏切、橋、そのすべてが初めて走る場所のようだ。スライド式の窓を開けると、生暖かい風とともに、桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちてきた。僕はそれを見て、知らない間に頬が緩んでいるのに気が付いた。

キャトルに乗るようになってから、いままでクルマに対してそれほど興味のなかった僕が、いろいろと調べだし、週末になるとキャトルに乗って遠方にも出かけるようになった。

最初に行ったのは、父が生前にクルマのメンテナンスを頼んでいた店だった。そこではこのクルマの成り立ちから、父がキャトルのことをどれだけ大事にしていたのかを聞いた。納車前に100万円くらいかけて部品交換や修理を行ったそうだ。ちゃんと手を入れているクルマだからこそ、30年前のクルマであっても普通に走れている。そのすばらしさなど、店主のキャラクターや話のおもしろさもあって、ついつい長居をしてしまった。

帰り際に店主から「なるべく乗ってあげてください」と声を掛けられた。その言葉には対象を“物”としてではなく、命のある“生き物”としてとらえている温もりを感じた。

少し遠出をした帰り道。道の駅で休憩していたら、50代くらいの男性に声を掛けられたことがあった。むかしキャトルに乗っていたという男性は「とにかく壊れてね」と、クルマを懐かしそうに見つめながらそう言った。

僕は「そんなに壊れるものですか?」と言おうとして、その言葉を押し込めた。

「若いのにえらいね」とその男性はポケットから缶コーヒーを出すと、

「大事に乗るんだよ」と手渡してくれた。

何がえらいのかよくわからなかったが、他にもこういうシーンはいくつか経験した。スーパーや銀行、コンビニの駐車場、信号待ちで停まっているときに、となりの車線にいる人からも声を掛けられた。話しかけてくる人は一様にやさしく、そして「壊れた」という言葉を口にした。

「そんなに壊れるものなのか」。このキャトルは譲り受けてから約1年経っても壊れることがなかったので、僕はこの先、どこが最初に壊れるのだろうと興味が深まった。

そして、ついにその日が来た。近所のドラッグストアに行こうと思い、用事を済ませて帰ろうとしたときだ。駐車場から出るときに、後輪を縁石の端に少し引っかけてしまった。車体がガクンと揺すられ、その瞬間に金属が何かと当たる音がした。そのまま走ろうとすると、何かを地面に引きずっているではないか。排気音も急に大きくなった。クルマから降りてみると、マフラーが折れている。

「あらぁ……」

ひとまず家に帰ろう。マフラーをガラガラ引きずりながら、爆音を奏でる超スロースピードなキャトル(実際は大して爆音でもないのだが)。僕は「最初のトラブルがこれかぁ」となぜかニヤニヤしてしまった。

去年の秋には、こんなこともあった。交通量の多い夕方の県道で信号待ちをしているとき、後ろから「プーッ!」という聞き覚えのあるクラクションが聞こえた。ルームミラーを見ると、後ろに白いキャトルがいて、男性の運転手が何やらゼスチャーをしている。何かを伝えようとしているが、よくわからない。僕はひとまず道路脇の小道にクルマを入れようとハンドルを切ったとき、初めてクルマの違和感に気付いた。白いキャトルも僕の後に続き、クルマを停めると男性の運転手が下りてきた。

「パンクしてますよ」

「あっ」

見ると左のリアタイヤの空気が抜けていた。

「気づかなかったです。ありがとうございます」

僕は礼を言ったものの、パンクを修理するものは持ち合わせていなかった。

「スペアタイヤ、ありますかね?」

白いキャトルの運転手は、僕のクルマを下からのぞき込むと「あ、ありますね」と言い、

「良かったら、交換しましょうか?」と笑顔で申し出てくれた。

「いいんですか? すみません、僕、これに乗り始めて1年くらいしか経ってなくて……」

「ぜんぜん! いいですよ」

男性はどこまでもさわやかだった。彼のキャトルを見ると、普通のタイプとはちょっと違っていた。聞くと「フルゴネットという貨物仕様なんですよ」と答えた。

「僕の仕事、わかります? ヒントはアレ」

男性は軍手をはめた手でクルマの側面を指した。何やらフランス語で文字が書かれているが、何か何だかさっぱりわからない。僕は当てずっぽうに「花屋さん?」と答えた。

「正解! お兄さんは……そうだなぁ。雰囲気からして接客業っぽいなぁ」

「えっ!? ぜんぜん違いますよ」

僕は慌てて否定した。否定したのだけど、他人からはそんな風に見えているのかという驚きもあった。そして、少しうれしくもあった。

「おー、すごい。スペアタイヤ、すごくちゃんとしてる」

男性はタイヤを僕に見せて言った。

「スペアタイヤ、あっても外れなかったり、空気抜けてたりしてることが多いんですよ。きっと前のオーナーがちゃんとした方だったんですね」

「これ、父の形見なんです」

「そうなんですか! それはすばらしい」

男性は手際よく作業しながら、キャトルのことをいろいろ教えてくれた。僕もいろいろと話した。むかしキャトルに乗っていた人は、必ずといっていいほど「壊れた話」をすることも。男性はハハハッと笑って「するよね。でも、言うほど壊れないけどねぇ」と付け加えた。

交換作業が終わると、男性は「じゃあ、お互い長く乗っていきましょうね」と言った。僕は何かお礼をしたいので、と申し出ると

「今度、どこかで仲間がトラブルに遭っていたら助けてやってください」

と言う。そして

「じつは僕も以前、サンクに乗っている人に助けてもらったんですよ。そのときに言われた受け売りです」

と照れ臭そうに笑った。僕もつられて笑い「はい。では、そうします」と深々と頭を下げ、男性とフルゴネットを見送った。

2020年4月3日。父が死んでから、きょうで2年が経った。

春真っ盛り。霧のような雨が町を包むなか、僕は満開の桜並木にクルマを停め、ぼんやりと外を眺めていた。フルゴネットの男性は、あのとき僕の仕事をどうして接客業なんて言ったんだろう。僕はそのことがずっと気になっていたが、キャトルに乗るようになってから、きっと何かが変わったんだろう。僕はルームミラーに自分の顔を映して、少し笑ってみせた。

TEXT & PHOTO/Eiichi Morita

1990y Renault 4 GTL

全長×全幅×全高/3668mm×1509mm×1550mm
ホイールベース/2443mm(右)、2395mm(左)
車両重量/720kg
エンジン/水冷直列4気筒OHV
排気量/1108cc
最大出力/25kW(34PS)/4000rpm
最大トルク/74Nm(7.5kgm)/2500rpm

Share

Leave a Reply